神奈川県小田原市の中心に位置する小田原城。初期の小田原城は、室町時代に一帯を支配していた大森氏が15世紀の中頃に高台に築いた山城だと考えられています。15世紀末には戦国大名の北条早雲の居城となって整備拡張されました。以来、北条氏はおよそ100年に渡り小田原城を本拠に関東一円を支配し、歴代当主五人は北条五代と呼ばれています。
小田原合戦で北条氏が滅亡した後、城主となった大久保氏、稲葉氏によって大規模な改修が重ねられました。小田原城は箱根の関の近くに位置することもあり、関東地方の防御の要として幕末まで重要視されたのです。
明治維新を迎え、小田原城は明治3年(1870年)に廃城となり、城の多くの建物は解体・売却されてしまいます。さらに大正12年(1923年)の関東大震災により残っていた石垣もほぼ全壊、江戸時代の姿は失われてしまいました。
現在の天守閣は、昭和35年(1960年)に、江戸時代に造られた雛型や引き図(模型や設計図)を基に外観復元されたものです。3重4階(屋根の数=3重・階数=4階)の天守閣は高さ38.7m。平成28年(2016年)には平成の大改修が終了しました。また、発掘調査も行われ戦国時代から近世・近代の遺構も発見されています。
現在、小田原城の本丸・二の丸一帯に相当する城址公園は、国指定史跡・都市公園に指定されています。
北条氏の4代目である北条氏政は、永禄3年(1560年)に家督を継承し、上杉謙信や武田信玄の相次ぐ小田原城への侵攻を退けました。天正8年(1590年)に家督を5代目の氏直に譲った後も最高実力者として実権を握り、豊臣秀吉との小田原合戦に立ち向かいます。
天正18年(1590年)、天下統一を目論む豊臣秀吉は、抵抗する北条氏に対し挙兵します。事前に秀吉の動きを想定していた氏政・氏直は、攻撃に備えて城を修築し、城と城下町を丸ごと囲む「総構(そうがまえ)」と呼ばれる土塁と空堀を築きました。この総構の長さは約9kmにも及び、城の規模は最大に達しました。
しかし、秀吉は約18万の兵力で小田原城を包囲。本陣として築いたのが「石垣山一夜城」です。一夜城と呼ばれるのは、築城の際、林の中に塀や櫓(やぐら)の骨組に白紙を張って白壁を造り、周りの樹木を一夜のうちに伐採したため、小田原城からは一夜にして城が出現したように見えたからだそう。北条方の兵は驚き士気を失ったとか。この小田原合戦により氏政は切腹、北条氏は滅亡に至ります。