高知市の中央にそびえる高知城は、全国でも唯一、天守閣だけでなく本丸の建築群が現存する貴重な城です。関ヶ原の戦いの功績により徳川家康から土佐一国を拝領した山内一豊が、慶長6年(1601年)から築城を始め、2年後に本丸と二ノ丸が完成するも、難工事の末、城のほぼ全容が完成したのは二代藩主忠義の治世に移った慶長16年(1611年)のことでした。享保12年(1727年)の大火で追手門を残し焼失、ただちに復旧にあたったものの財政難もあって天守閣が復興するまでに20年以上の歳月を要し、宝暦3年(1753年)までに創建当時の姿のまま再建されました。その後は、自然災害や明治維新による全国的な廃城、太平洋戦争など、幾度となく襲った危機を乗り越え、優美な姿をした建物を今に残しています。本丸には外観4重(内部3層6階)の天守閣や、本丸御殿、納戸蔵、廊下門、東多聞、西多聞、黒鉄門などの建造物が残り、いずれも国の重要文化財に指定されています。
高知が生んだ幕末のヒーロー・坂本龍馬は、天保6年(1835年)11月15日、高知城下の本丁筋(現在の高知市上町)で生まれました。坂本家は、郷士(ごうし)という下級武士でしたが、もともと本家の才谷屋(さいだにや)が豪商であったため、龍馬は裕福な家庭で育つことができたと考えられています。また、幼少の頃は泣き虫とからかわれましたが、剣術修行に励み成長していきます。
文久元年(1861年)、土佐勤王党に加盟しましたが、急進的な攘夷論に同意できずに土佐藩を脱藩。その後、近代国家誕生を目指して奔走しました。
慶応元年(1865年)、日本で初めての商社といわれる亀山社中を設立します。外国との取引を通じて、翌年当時仲が悪かった薩摩番と長州藩の手を結ばせる薩長同盟を成功させます。その後、慶応3年(1867年)6月、長崎から海路上京する船中で独自の国家構想である船中八策をまとめました。この考えが徳川に受け入れられ大政奉還につながったともいわれています。しかし、同年11月15日に京都近江屋で襲撃され、明治維新を見届けることなく33歳の若さで闘死しました。
高知城の城下町は築城開始とともに本格的に建設が始められました。城下町は、城を中心とした上級武士(上士)の住む「郭中(かちゅう)」に対して、下級武士や職人、商人の町である町人街は「上町(かみまち)」「下町(しもまち)」に町割りされていました。土佐藩の身分制度は厳しく、郷士の家に生まれた龍馬は裕福であっても、郭中に住むことはできなかったのです。
龍馬の生まれ育った上町には当時、下級武士の他に職人や商人達約800軒の家があったといわれています。中でも数が多いのが鍛冶屋・紺屋でそれぞれ26軒、大工が18軒確認できます。このように様々な職業の人々が軒を並べ、お互いに助け合いながら、活気溢れる暮らしをしていたようです。
裕福な商人を本家として育った龍馬は、上士といっても商人から借金し頭が上がらない現実を目の当たりにし、また専門的な知識を教えてくれる職人や商人、大勢の家族に囲まれて育ちました。このような環境で育ったことで、自然に平等意識を身につけて、後の身分差を超えた行動力につながっていったのかもしれません。