京都が誇る世界遺産の二条城は、慶長8年(1603年)徳川家康により、天皇の住む京都御所の守護と将軍上洛の際の宿館として築城されました。
3代将軍・家光の時代、寛永3年(1626年)の後水尾天皇行幸のため、城は現在の広さまで拡張され、天守閣や行幸御殿、本丸御殿なども造営されました。その後、行幸御殿は移築され、寛延3年(1750年)の落雷により天守閣、天明8年(1788年)の大火により本丸御殿などが焼失してしまいましたが、二の丸御殿は現在も往時の風情を伝えています。
書院造の代表例である二の丸御殿は全6棟の建物からなり、国内の城に残る唯一の御殿群として昭和27年(1952年)国宝に指定されました。東南から北西にかけて、遠侍(とおさぶらい)、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院が立ち並び、部屋数33室、800畳余りもある内部は、代表的な「松鷹図」をはじめ狩野派の障壁画で装飾されています。
二の丸御殿の他、特別名勝の二の丸庭園、重要文化財の唐門など、築城から約400年の時を経た今も絢爛たる桃山文化の遺構を見ることができる二条城は、平成6年(1994年)世界文化遺産に登録されました。
天保8年(1837年)水戸藩徳川斉昭の七男として生まれた徳川慶喜は、兄弟の中でも優秀で、11歳になると将軍を出す家柄である一橋家に養子に入りました。尊皇攘夷の機運が高まり政治の中心が江戸から京都に移る中、慶喜は14代将軍・家茂の病死を受け、慶応2年(1866年)15代将軍となります。
しかし、薩摩藩や長州藩など有力諸藩との対立が広がり、幕府の弱体化が明らかな中、翌年には政権を朝廷に返上します。これが「大政奉還」です。その後、江戸城は新政府軍に明け渡され、慶喜は江戸幕府の最後の将軍となったのです。
徳川家の栄枯盛衰を見守ってきた二条城は、幕末の歴史の転換点である大政奉還の舞台にもなりました。慶応3年(1867年)、江戸幕府が弱体化し、薩摩藩と長州藩が同盟を結んで討幕運動を始める中、土佐藩から幕府宛てに「政権を朝廷に返上すべきである」との意見書が提出されました。それを受けて徳川慶喜は10月13日、二条城二の丸御殿大広間に、京にいた十万石以上の大名家の重臣40藩50余名を召集、政権を返上する予定であることを公表し、意見を尋ねました。主要な大名家のほぼすべてが参集したといいます。10月15日、朝廷が政権返上を受け入れたことで大政奉還が成立しました。こうして江戸幕府は終焉を向かえ、新しい時代が始まったのです。