滋賀県彦根市、琵琶湖を望む彦根山にそびえる彦根城は、国宝に指定された天守の他、その周囲を巡るように建つ重要文化財の各櫓(やぐら)、麓には下屋敷をはじめ内堀や中堀などが築城当初の美しい姿を留めています。
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は慶長8年(1603年)彦根城築城を決定します。西国大名の反乱を抑え、京都を守護するという重大な使命を井伊家に委ねたのです。翌年着工し、大津城から移築した天守など主要な部分はおよそ2年で完成しましたが、表御殿の造営、城郭改造など、城郭の完成は約20年後の元和8年(1622年)までかかったといわれています。
天守は3階3重、規模は比較的小ぶりではありますが、屋根は多様で、「へ」の字形の切妻破風(きりづまはふ)、入母屋破風(いりもやはふ)、丸みを帯びた唐破風(からはふ)を配置しています。2階と3階には本来、寺院建築に使われる曲線が美しい花頭窓(かとうまど)を付け、3階には高欄付きの廻縁(まわりえん)を巡らせるなど、変化に富んだ姿を見せています。
明治に入ると、彦根城も他の城と同様に廃城・解体の危機にみまわれました。しかし明治11年(1878年)10月、明治天皇が巡幸で彦根を通られたときに、保存するようにと命令を下されため、今も往時の姿をとどめているのです。
平成8年(1996年)には築城以来5回目の大改修が完了。天守の34種類、約6万枚にも及ぶ屋根瓦の吹き替えと白壁の塗り替えも行われ、現代に美しく蘇っています。
井伊家は、江戸時代を通じて彦根藩主として近江国東部を中心とした一帯を治めた大名です。井伊家の13代藩主であり、江戸幕府の大老であったのが、井伊直弼です。
直弼は、井伊家11代直中の隠居後に、その14男として生まれたため、家を継ぐ立場にはありませんでした。しかし、直弼が32歳の時、12代直亮の養子となっていた兄の直元が死去してしまいます。他の兄弟は他家へ養子に出ていたため、直弼が藩主の跡継ぎとなり、嘉永3年(1850年)直亮の死去をうけて彦根藩主となりました。嘉永6年(1853年)に黒船でペリーが来航し、鎖国か開国かで国内は混乱します。安政5年(1858年)4月に幕府の大老職に就いた直弼は、6月には「日米修好通商条約」を調印、開国に踏み切ります。しかし、安政7年(1860年)3月3日、桜田門外で反対派に襲撃され命を落としました。
埋木舎は旧中堀に面して立つ簡素な武家屋敷で、井伊直弼が17歳から32歳までの15年間を過ごした場所です。井伊家を継ぐ立場になく、他家の養子になる機会にも恵まれなかった直弼は、自らを花の咲くことのない埋木になぞらえ、
「世の中を よそに見つつも 埋もれ木の 埋もれておらむ 心なき身は」
と詠み、この屋敷を「埋木舎」と名付けました。
直弼はここで、茶道、和歌、能、禅、武術、柔術などの文武両道の多くを学びました。この時培った高い教養が、世界を見る確かな目を養い、後に幕府の命運を担う大老として大きな花を咲かせることになったといわれています。